2009年05月14日
泉崎について
プライベートブログもTI-DAブログに変えました。うちなーんちゅが集まるからここが良いと思いましたのでよろしくお願いします。
私は那覇市泉崎出身です。現在も自宅は泉崎です。泉崎といえば昔から言われているように那覇四町(なーふぁゆまち)の一町です。歴史と伝統がありこの地域の人たちは地元を誇りに思っています。那覇四町は皆さんご存知でしょうか?東町(東村ひがしむら)、西町(西村にしむら)、泉崎(泉崎村いじゅんじゃち、あるいはいずみざきむら)、若狭(若狭町村わかさまちむら)の四町です。東町と西町はあがり、いりとは言わずひがし、にしです。これは薩摩が琉球へ侵攻後に那覇が分村した頃からそういうよび方になったようです。若狭がなぜ町村とついているかというと、昔は地域のことを村と言い、若狭町村の町は市場のまちのことです。方言で店をまちやーといいますね?昔は若狭地域は市場だったのでまちがついたのです。東、西、若狭の三町は浮島と言われていた離れ島にありましたが(厳密に言えば現在も久茂地川と潮渡川に囲まれているので離れ島とも言えなくない)泉崎は沖縄島内にありましたので自らを「矼内(はしうち)」と称していました。那覇バスターミナル内にある仲島の大石(なかしまぬうふしい)のそばにある故石川正通先生の和歌の歌碑があります。「橋内の誇りも高き泉崎昔も今も人美しく」
泉崎のことはまだまだいろいろなことがありますので今回はこの辺で終わります。
私は那覇市泉崎出身です。現在も自宅は泉崎です。泉崎といえば昔から言われているように那覇四町(なーふぁゆまち)の一町です。歴史と伝統がありこの地域の人たちは地元を誇りに思っています。那覇四町は皆さんご存知でしょうか?東町(東村ひがしむら)、西町(西村にしむら)、泉崎(泉崎村いじゅんじゃち、あるいはいずみざきむら)、若狭(若狭町村わかさまちむら)の四町です。東町と西町はあがり、いりとは言わずひがし、にしです。これは薩摩が琉球へ侵攻後に那覇が分村した頃からそういうよび方になったようです。若狭がなぜ町村とついているかというと、昔は地域のことを村と言い、若狭町村の町は市場のまちのことです。方言で店をまちやーといいますね?昔は若狭地域は市場だったのでまちがついたのです。東、西、若狭の三町は浮島と言われていた離れ島にありましたが(厳密に言えば現在も久茂地川と潮渡川に囲まれているので離れ島とも言えなくない)泉崎は沖縄島内にありましたので自らを「矼内(はしうち)」と称していました。那覇バスターミナル内にある仲島の大石(なかしまぬうふしい)のそばにある故石川正通先生の和歌の歌碑があります。「橋内の誇りも高き泉崎昔も今も人美しく」
泉崎のことはまだまだいろいろなことがありますので今回はこの辺で終わります。
Posted by takachiyan at 01:35│Comments(0)
│挨拶
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。