泉崎の旗頭「グーヤー」の由来、語源は?
以前も書きましたが泉崎の旗頭「グーヤー」の由来、語源等についてまた書きたいと思います。
現在那覇大綱挽に参加している泉崎の「グーヤー」は19世紀頃の古い資料にもはっきりと描かれており(慎思九の親見世綱之図など)伝統ある旗頭です。
トゥールー(灯籠)部分の巴の模様を指して「グーヤー」と言いそれが旗頭の名称になっています。
那覇大綱挽記念誌等の資料には「巴」に「グーヤー」とかなをふっています。「グーヤー」は巴の模様を指しているのは間違いないのですが「巴」を「グーヤー」と読む根拠が分からず常々疑問に思っていました。
「巴」は「ハ」「ともえ」と読みます。うちなーぐちなら「とぅむい」と読むはずです。
「巴御紋」の「御紋(グムン)」からきて「グーヤー」となったのでしょうか?しかし、「御紋」の「御」はいわば敬称なのでなにか不自然な感じがします。
「グーヤー」とは何を意味する言葉か?また、この旗頭の由来はなんでしょう?
「グーヤー」という名称は特殊な感じが私はします。
なぜなら他の地域の旗頭は名称になっている言葉の意味がはっきりしているからです。
西一番旗の「八卦(ハッチ、ヒャッチ)、日之輪(ヒヌワー)」西二番「西王母(シオープ)」東の一番旗「大結(ウフムスン)」若狭の「京判やーま(チョウバンヤーマ、ヤーマはうちなーぐちで機械や装置のこと)」久茂地の「盛鶴(ムイヂル)」安里(東二番)の「薄(シシチ)」など。
「グーヤー」の巴の渦巻き模様は湧き水が湧き上がる様子を表し水どころの泉崎を象徴しているとよく言われます。もちろんそうでしょう。しかしはたしてそれだけなのでしょうか?
一昨年発見された昔の綱挽の絵や大正時代の写真などの「グーヤー」の巴は太極図にそっくりだと最近分かりました。(那覇大綱挽30周年記念誌に大正時代や昭和10年の「グーヤー」が載っています)
太極は古代中国の道教のシンボルでありまたいわずと知れた韓国の国旗です。
19世紀頃の朝鮮の国旗は昔の「グーヤー」の模様にとてもよく似ています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97
昔、県庁周辺に湧田焼きの窯があり、陶工は朝鮮から帰化した人たちであったようです。
http://yachimunstyle.web.fc2.com/yachimunmap.html#wakuta
島袋全発先生著の「那覇変遷記」には、
”高麗人長献宏は窯業を伝えるため泉崎に永住帰化したから、その系統も今日の有力な人々に多い”
”注釈、帰化して張氏崎間家となる。窯業に従事するため薩摩から遣わされたのである。”
とあります。
現在もお元気に多方面で活躍しておられる沖縄の風俗史研究、芸能史研究家の崎間麗進先生は生粋の泉崎人でありこの家系の方であるようです。崎間先生の他にも名前に「麗」の字がつく方が泉崎には多かったらしくこの方々は高麗人の子孫であったようです。
太極旗を韓国語では「テグッキ」と発音するようです。太極は「テグ」と発音するのでしょう。「グーヤー」の「グ」の発音が出てきました。「テグ」が変化して「グーヤー」になるのは自然な感じがします。変な言い方かもしれませんがうちなーんちゅらしい変化のさせ方の気がします。
私は学者ではないのではっきりと断言はできませんが、昔の高麗(朝鮮)の影響は間違いなくあるように思います。歴史、伝統のある「グーヤー」はいろいろ調べるうちに実に色々なことが分かってきて夢中になってしまいます。歴史のロマンを感じますな~。
追記
ここに書いてある私の考えはあくまで泉崎の旗頭「グーヤー」に限っています。
一般に知られている巴紋のことではありませんので誤解なきよう。
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